SASANAMI DAYS

近江大津宮にまつわる云々 とか趣味のこと とか

ストレスフルな日々

久々です。

以前に紹介した「仏女ブロガー」の件は応募してましたが、普通にハズレてしまいました。

まぁほっといても自分で行っちゃう人には当たらんわな(-_-)

それはさておき、職場には8月くらいからずっと10月に休みを取る根回ししてたんですが、あまりの忙しさに

こんな時に休んだら一生ハブられるんじゃないかというくらい忙しく、旅行に行く気力も出ず。

ひどく疲れていましたが、こんな時こそ近江に行きたくなるんです~。

1月か2月、近江に行こうかと画策中。

 

崇福寺跡、志賀越えのおおほとけ、延暦寺を回るコースにしたいな。

 

うん、シンドイけど頑張ろう。ニンジンぶらさげつつ、ストレスフルな日々を乗り切りたいと思います。

飛鳥に関する本

本屋さんで飛鳥に関する本を見つけました。すご~くイイ感じ~。

極・飛鳥極・飛鳥
(2011/09/01)
橿原高市広域行政事務組合

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最近、奈良に関する(遺跡とか古墳とかに重点をおいたもの)本が多くてうらやましい。

「極・近江」なんて本も出版されませんかね?

九博トピック展示「斉明天皇と飛鳥」

シンポジウムには行きそびれたわけですが、九博でトピック展示をひきつづきやっていましたので、見てきました。

 

http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_pre81.html

 

文化交流展示室という常設展の一部を少し変えて展示してありました。

飛鳥の亀型石造物の模型なんかもあったり。飛鳥に見に行きましたが、遠目に見ただけだったので、実物大の石造物の大きさにビックリ。飛鳥に「狂心の渠」なんていわれつつこんな石造物をつくり、大戦のために九州まで遠征し、斉明天皇とは一体どんな人だったのか、とても気になります。

乙巳の変で驚きのあまり天皇位を投げ出したと言われてますが、そんな胆の小さい人じゃないよね?

 

そしてそれより気になったのが、朝倉宮発掘に関するコーナー。

先日の九歴講座でもちらりと話があっていましたが、朝倉橘広庭宮跡地の候補地として、朝倉市の志波地区だけでなく、大宰府政庁跡(第1期)にあったのではないかという説が最近出されたらしいのですが、そのことを大きく取り上げていました。九州国立博物館として、朝倉宮跡地としての有力候補地として、志波地区と大宰府政庁跡の2か所を紹介していることにかなりビックリしてしまいました。

 

というかむしろ、朝倉宮の大宰府政庁跡説が今までほとんど取り上げられていなかったほうが私としては不思議なくらいで。これからの研究成果が楽しみですね~♪

飛鳥の熱血プリンスとカミソリブレーン

『世紀のワイドショー ザ・今夜はヒストリー』、たまたま予告を見て「大化の改新」とあったので見てみました。

ワイドーショーっぽく、昔の事件を取り上げるっていうスタイルの歴史番組は以前からありますけど

なんというか、二番煎じっぽいというか、熱血プリンス、カミソリブレーンとかネーミングセンスが古くさいなぁというか。

とてもわかりやすく解説していたとは思いますが、小学生が習う「日本の歴史」レベルの話。

もう少し、ヘー!そうだったんだ!と思うような内容にして欲しかったかな。

 

ただこの番組の意図と関係ないんですが、乙巳の変の再現シーンを見てて、「大化の改新はなかった」という説が、アリかもしれないなという気がしました。

「大化の詔」が日本書紀による後付けのものっていうことではなく、乙巳の変に、中大兄はいなかったという説。

飛鳥の熱血プリンス中大兄皇子とカミソリブレーン中臣鎌足が推し進めた大化の改新って、なんだか造られたものっぽい、気がしますねぇ…。

「朝倉宮と水城大堤」受講

第4回 九歴講座in太宰府「朝倉宮と水城大堤」

  2011/8/20 於:太宰府市文化ふれあい館 講師:小田和利氏

 

九州歴史博物館の九歴講座の出張講演でした。7月にあった九歴講座と同じ内容かな?と思っていたのですが

今回は朝倉橘広庭宮について詳しく説明して下さいました。

朝倉宮は、都が遷されてわずか2ヶ月あまりの短命の宮都でしたので、何もわかっていません。…と思っていたら、現在その推定地として有力候補として上がっている志波地区で、発掘調査がかなり進んでいるようです。掘立柱形式の大規模な建物群跡が発見されています。

 

岸俊男先生によると(『日本の古代宮都』岩波書店)、遷都の本義は単に天皇の移住にあるだけでなく、より重要なのは政府機関の移転であり、それに伴う官人およびその家族の移動であった、といいます。出産間近の大田皇女まで連れて行ったのは、戦の為のみではなく筑紫の地に或る程度の基盤を置いて宮都とする意図があったのかも知れません。であれば、それなりの規模を持つ宮都であったはずです。斉明天皇崩御という事態になってしまったため、たったの2ヶ月で都遷りするはめになってしまいますが。

 

水城の築堤について、基底部分と上成土塁では、工法や土質に相違があり、時間差があったのではないかと考えられているそうです。

前述のことと併せて考えてみると、最初水城は朝倉宮へ到る道をふさぐものとして築堤を始め、(万一の時には朝倉宮から筑後川を下って脱出、その間水城でもって敵の進攻を防ぐためのもの)斉明天皇崩御後、太宰府に拠点を移し、軍事施設としての水城を築堤していったのかな、なんて。いや~~すっごくワクワクします♪

 

これからの研究の進展が楽しみになる講座でした。