近江神宮が聖地☆
最近ちょっとハマってる漫画です。アニメ化もされてるみたいなので(未見)、ご存じの方も多いでしょうが。
競技かるた(百人一首)をメインにした青春ストーリーです。展開がなんだかジャンプっぽいですけど(笑)とても面白いです。
で、何がいいかって言うと、近江神宮が聖地として描かれてるんですよーーーーーっ(≧▽≦)
近江神宮はほぼ毎年詣でてますが、かるた大会とバッティングしたことがなくて、今まで気が付いてませんでした。
この作者さん、絵のとても綺麗で、近江神宮もとても美しく描かれております。ほぅ(って、うっとりするとこ、そこ?!)
これ読んで、私もかるたをやりたくなってしまいました。
もうン十年も前のことですが、私の通う中学ではクラスマッチが盛んに行なわれてまして、年に5~6回やってたかな?バレーボールとかバスケとか各種スポーツをクラスで競う中、なぜか百人一首大会も含まれていました。スポーツには得意不得意がありますが、百人一首の場合、暗記してるかどうかがポイント。当時からすでに歴史好きで、百人一首も好きで百首全部覚えていたため、独り勝ち状態でしたが、かるた会からスカウトされたなんてことはなかったので、校内にかるたやってる人はいなかったんだろうなぁと今になって思います。
あの時、かるたを始めていれば、違ったかたちで近江神宮に対面することになったかも?(やっぱりそこ?)
オススメです。
大分市歴史資料館特別展「大分の君-飛鳥と豊後をつないだ人」
なんかもう全然近江宮について語っていませんが、もうひとつ。
大分市歴史資料館特別展「大分の君-飛鳥と豊後をつないだ人」
http://www.city.oita.lg.jp/www/contents/1320039742293/activesqr/common/other/4e97e448018.pdf
ミニ企画展みたいなのを想像していたら、なかなか良かったですよ!
薬師寺から天武天皇坐像なども来てましたし、結構力をいれてたんじゃないでしょうか。
…宣伝してなさすぎ★もったいない。
壬申の乱で活躍した大分君恵尺・稚臣をテーマにしていますが、さすがにマイナーな人物ゆえに順をおって初心者でも理解しやすよう展示がされていました。
個人的感想としては、古宮古墳をもっとアピールしていいよ!ってところでしょうか。
被葬者として有力候補となっているのが、恵尺であることがパネルでひっそりと紹介されてました。
大化の薄葬令の規定からいくと、古宮古墳は上臣クラスの墳墓であり、地方にある墳墓として被葬者に該当する人物を考えると、恵尺である可能性が非常に高いということです。
恵尺・稚臣と大海人皇子がどこで出会い、絆を深めたのかはわかりませんが(その辺わかる史料があればいいんですけど、あるわけないですよね~)普通に考えると斉明天皇征西のときですよね。もっというと、斉明天皇崩御のため、中大兄皇子が飛鳥に戻っているあいだ、九州を任された大海人皇子が唐の侵攻から守るため、大分君らと九州の防備を固めるために動いていたとかだったりするわけですよね?
もし斉明天皇崩御がなく、中大兄皇子が九州を離れることがなければ、後の歴史は変わっていたかもよ?
…な~んて妄想気味に考えてみたり☆
『日本書紀』を読めば、大分君らの活躍はわかります。天武天皇から高位を授けられたことも記載されています。
でも読むだけだと、さらっと流してしまいます。
出土した遺構や遺跡、古墳などをみるとその意味がぐっと近づいてきます。
そういう意味でとても有意義な展示会だったなぁと思います。
2011/10/21~11/27 までの開催です。
朝倉宮探訪紀
そんなわけで、2000年7月の記事から再録。もう11年も前の旅行記ですが。
この頃、朝倉宮の発掘調査はほとんど進んでおらず、須川地区に石碑がポツンを立っていただけでした。
そう思うと本当に感慨深いものがあります。
※ちなみに須川を朝倉宮とした説は、江戸時代に地元の庄屋であった古賀某が提唱したものです。
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~~(前略)~~
そして意外にも穴場だったのが、この恵蘇八幡宮。ここは天智天皇を祀っている神社ということだったので、一応お参りしておこうと思って来ただけだったのだが、別名を木の丸殿といい、中大兄皇子が斉明天皇の喪に服すために籠った場所らしい。本来殯は12ヶ月行われるものだが、軍事中のこともあり一月を一日に変えて十二日間この場所で母帝のために祈ったということだ。おおお、そういう所だったんだ。「君が目の恋しきからに泊ててゐる斯くや恋ひむも君が目を欲り」というお歌を思い出す。
中大兄皇子が実際にこの地に生きていたことをひしと感じた。感動~。
ここは木の丸公園と呼ばれていて、古代をイメージした万葉の谷広場とか古代の森広場などがある。
他にも中大兄皇子ゆかりということで時の広場と称してこんな漏刻のオブジェ(↑)があったりもする。
お社で参拝した後、階段をのぼっていくと斉明天皇を葬ったとされる御陵がある。小さな小高い丘につくられた円墳だった。
ただちょっと手入れされてないようなのが悲しかった…。まあその亡骸は故郷飛鳥に帰っていったわけだから実際には何もないのかもしれないけれど。例の酒船石の亀の発掘のこともあって、斉明天皇といえば話題の人なんだからもう少し気を遣ってもいいんじゃないかなぁ?
朝倉といえば「朝倉や木の丸殿にわが居れば名乗をしつつ行くは誰が子ぞ」か「君が目の~」のお歌があるだろうと探してみると……あったのは『秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ』だった。いや、これも確かに朝倉で詠まれたものだとは思うけど…。う~ん。やっぱりこのお歌が有名だからかな?
ところでこの木の丸殿近くには筑後川が流れている。筑紫次郎と呼ばれるように日本でも有数の大河だ。当時の水量は知らないけれど、そもそも朝倉に宮を築いたのはこの水路の利用を考えてのことだったわけだから当時からも大きな河であったことには間違いはないと思う。この河の流れの音を聞きながら、母帝の喪に服していた期間、中大兄皇子はいろいろなことを考えていただろう。母の死を悼むとともにしかし政治家、中大兄皇子はすでに次に成さなければならない事を考えていたはず。それだけ逼迫した状況下であった。大津宮遷都というのはこの朝倉宮を営んでみて水路の重要性を感じたからではないだろうか、そんな気がした。
朝倉宮跡からは何も出土されていないらしいが、確かにここに中大兄皇子が生きていたのだと思うととても嬉しくなった。(本人にとっては全然嬉しい状況ではなかっただろうが;)思い入れのある人間にとってはなかなかいいところでした!
今度はもう少し下調べしてからもう一度来たいと思いながら、家路についたのであった。
「大宰府講座(大宰府と筑後編)」受講
今回は放送大学の面接授業です。
2011/11/12-13 於:九州歴史資料館
またしても九歴の大宰府講座に参加してきました。放送大学の面接授業(スクーリング)ですが、フィールドワークのついたとっても楽しい講義なのです♪
実は今回言いたいのは、講義の内容ではなく(あ、講義内容はもちろん素晴らしかったですよ!)朝倉宮のこと。
以前の大宰府講座で、現在”志波地区”が朝倉宮跡の有力な候補地としてあがっていることを知りましたが
その志波地区って、あの 木の丸殿周辺ではないですか~~~っ
いや、「あの」って何?って思われるでしょうが、あの場所には私的には結構な思い入れのある場所だったのです。
その場所は中大兄皇子が斉明天皇の喪に服すために籠ったという伝承がある地なのですが、裏付けするものは何もなく、本当に伝承レベルだったんです。
私がその地を訪ねたのは10年くらい前だったんですが、当時はほとんど調査もされていませんでした。
須川地区に「朝倉宮跡」として石碑が建ってはいましたが、それすら「根拠なし」とされていました。
それがっ!今ではっ!!
大規模な建物群の遺構がざくざくと!(今のところ、周辺建物群だけですが)
中央右寄りに青い屋根の建物は小学校の体育館なんですが、この下あたりに朝倉宮跡があるのではないかと
言われているそうです。
木の丸殿は左側、写真よりちょっと切れるくらいの位置だったかと。
三方をぐるりと山に囲まれ、宮を置くには絶好のロケーションです。
いや~~本当に感慨深いです。これからの研究の成果が期待されます♪